昭和41年10月26日 夜の御理解
いつのまにか、信心の雰囲気というものが、ここにひとつの道をなし、ひとつのそういう雰囲気が、一家中を信心の雰囲気にしてしまうと云うようなおかげを頂きたい。今日、いつも土居の共励会の夜は、ここ十一年前までは、本当に家族の者ばっかりだった。先生方、夜の御祈念なども、ですからもう、本当にあの以前私の家では、誰かが御神前に出て御祈念をしますと、そのあとにみんな後ろにつながって御祈念をする。ま子供の時などは、それを、御祈念を聞きながら眠ってしまう。
そのまあいうなら、何ともいえんその雰囲気の中に眠ってしまっても、それがですねさあ信心になったから、皆んなが信心になるというのはなかなか難しい。やっぱりそういう風にね、いつの間にかその信心の雰囲気というものが、家族の中にでけてくるおかげ。だから私はいつも最近は夜の御祈念でも、沢山のお参りがあるものですから家族の者、誰がお広前に出てきておるのやら、だれが御祈念しよるやらも分からん位ですから。けども今日のような日は。
私はみんなその、まあいうなら親子、孫まここで揃うて御祈念が出来るのは有難いんですけれども。これにほんなら子供達も全部、この御祈念に出てきて、いうなら大坪の家の者ばっかりで、こう御祈念をしておるというような雰囲気というものはですね。もうその御信者さん方の御祈念の雰囲気なんかでは味わえない。もう親身の者ばっかりが、あのひとつの雰囲気の中に、御祈念をさしてもらうといったような雰囲気をですね、作っていくような心がけが、私は必要ではないだろうかとこう思った。
さあ御祈念バイ、さあ今日はもう御信者方もお参りが無いから、さあみんな一緒に御祈念に出ろうと云うて、なら子供達もみんな出て来てから御祈念を頂きました。私共が子供の時分から味わいよった、あの雰囲気というようなものがです。そのかえって、その教会の形がこういう風になってまいりますと、もう子供達の上に、そうした雰囲気を味おうてもらう機会がなくなる。
これはみんなが心がけなきゃいけないことだと思うです。そうせねばならんとか、こういう道をつけるとかいうようなものではなくてですね、そういう雰囲気を楽しましてもらえるような私は、おかげが必要だと、こう思うんですね。どうでも、これはお互いの家庭の上にいてもそうです。本当に、もう心いくまで、家族中の者が、御神前に出て御祈念をされる。もう思うただけでも心が有難いでしょうが。
だからそれにみんな同じ一つの心になるということが、もうこれだけでも、家庭の中にひとつの信心の輪というものが生まれてくると思うですね。それだけど、一人だけが、ずば抜けて信心がでけるということではなくてです。もう家族がもう勢を揃えてというかね、そういうような信心が いつの間にかそういう雰囲気がでけておる。そういう心がけを、私は大人がしていかなければならんのじゃないかとこう思う。
特に、私の辺りは、そういう心がけをした訳ではないけれど、例えばほんならここの六畳の間で御祈念をする。それにみんなが後ろからみんなが、一緒に御祈念さしてもらう。それで、中には眠っとるのも居りゃ、最後まで御祈念しよる者もあるけれど、そういうその、やはり繰り返しがですね、いつの間にか私共に、ひとつの信心の情操といったようなものを高めさしてくれ、まあ養うてくれたんだという風に思うんです。
だから、今日のように、まあ外来の御信者さん方がまあ幾人かという位。これに、私の家の者が全部集まって、したらそういう雰囲気が出来る。ですから、矢張りあのさあ今日に限ったことではないけれどもです。さあ御祈念前に風呂にばたばたは入っとかんね、さあ御祈念ばい、さあみんなでろうと云うて、みんながそういうこの誘い合わせる気持ちというものがです。私は家族中に必要じゃなかろうかと。
そこに、いつの間にか、何とはなしに、信心のそうした情操というものも、段々つちかわれてくると同時に、本当の信心の有難さとか、家族ぐるめてのその信心の有難さといったようなものを、味あうことが出来るのじゃないかと。今晩、私、父と若先生と。それになら母やら家内やら豊美達がはいっておりますけれど、これに、まあこまい栄四郎達まで、みんなこれに御祈念さして頂いたらですね、もっと有難い雰囲気が出来るんじゃないだろうかと。
そしてそれが、なら本人達の信心の情操の上にもですね、どうもその何と云うでしょうか、非常に信心が、その今日のあの西日本の夕刊に禅寺の次男坊に生まれてその、何か随筆があったんですけれども。その七つ八つ位から、お経も覚えてから、そのまぁ檀家の家でもまわりよったと云うんですね。門前の小僧、習わずして経を読むというようなものは、何かかしこく出来ていくですね。
先生の真似事といったようなことは出来るけれども、そういう信心の何とはなしの、もう子供ながらも、頭から信心のその有難さがしみこんでいく。而も一晩二晩じゃない、それが限りなく続けられていくところにです。豊かな信心の教養も身についていく、その情操が素晴らしいと思うんですよね。私は、大体、子供ん時から、今考えてみるとですね、好きだったんですね。何とはなしに、あの婆達が祈っておった祈りの言葉といったようなものが、耳に残っとりますもん。
矢張りあの大祓いの声が、又は、あの、麦生なんかにまいりますと、爺、婆がいつも経文を読みますから、あの御仏壇の前で。それがですね、何とはなしに私の心の中に、信心の大事なものと云うか、そういう信心の有難さといったようなものが、こう何とはなし、染み込んできておると言った様な気がするんです。だから、やっぱり、さあという時に信心をさせるというだけではなくて、いざ、ちいう時には、信心するごつなるよというようなもんじゃなくてです。
もういつの間にかそういうものが、こう養われていくような工夫がね、家の中でもなされていかれなきゃいけない。そんために例えばほんなら、祭壇を設けなければならない。神様も矢張りお祭りさしてもらわなきゃならない。いつも綺麗にお掃除もしておかなければならない。いつも御祈念する時にお明かりが、あかあかとこう燃えておらなければならない、というようなものも、又、条件になる訳なんですね。そういう雰囲気が家族中の者が好きになるようになってきたら、信心の輪というものが生まれてくると思うですね。
どうぞ。